【第三話】2度目の入院 アトピー仲間はみんな包帯グルグル巻きのゾンビ集団

アトピー性皮膚炎 全身の症状

大学を出てOA機器メーカーの営業で就職した私が1年もしない間に退職をしたが、大学の恩師のおかげでシステム会社に再就職し、プログラミングの仕事についた。

オフィスでの仕事は快適だった。

真夏の暑い、汗がダラダラ出るような日も、真冬の乾いた冷たい風が吹くような日も、私は温度が一定の空調のきいた室内で、パソコン向かって働く。

クリーンな環境は私のためではない、パソコンのためだ。

システムの納期が迫ってくると、残業は当たり前だったが、アトピーはここ数年ひどくならない状況だった。

私自身、自分がアトピーである事も、ほとんど忘れていた。汗をかいても、風呂に入らなくても、酒を飲んでも、寝不足でも、夜通し遊んでも、体は痒くなったり、赤くなることも無かった。

大学時代から付き合っていた彼女は、私の体の変化にとても驚いて喜んでいた。

海にも行ったし、思い切り日焼けもして、海でボディーボードをするのが、私達の趣味になった。でも、その良い時期は、私の仕事の内容が変わると、変化してきた。

システム会社でプログラマーとして成長してきた私は、当時イケイケで、お客相手のプレゼンでも堂々としていた。

20代前半の若造がなんだ!と思われそうだが、学生時代の接客のバイト経験や、最初に着いた会社ので営業研修、子供のころからのスポーツの先輩後輩との礼儀など、どうすれば相手に気に入られ、気分よく話してもらえるかを知っていた。

プログラミングの仕事よりも、相手とコミュニケーションをとって、仕事を前に進める仕事の方が楽しかった。

お客さんから吸い上げた情報をシステムの提案としてまとめたり、仕様として落とし込み、プログラマーがコードが書けるまでにまとめる仕事(システムエンジニア)は、会社の社長からも適職とみなされ、私のやり方に文句を言われたことは一度も無かった。

でも、自分ではやりがいのある仕事でも、体には負担になっていたようだ。営業社員と一緒に、システムの打ち合わせに頻繁に出るようになった私は、だんだん体が痒くなったり、ボロボロが出たりするようになった。

商談後の外食や、飲み会も増えた。仕事の内容も負担になってきた。

自分のまとめた仕様で、きちんとシステムが動くか、後輩のプログラムの動作テストも私がやらなくてはいけなかった。

だんだん家に帰るのが遅くなり、休日に出勤することも多くなった。会社に泊まって寝たこともあった。

そしてついに、仕事に影響が出た。朝、起きあがれない。夜中に掻きむしった肌からは、血と体液の匂いがした。

準備にも時間がかかる。私が遅刻しても誰も文句を言う人は居なかった。

タイムカードに間に合わないと思った日は、かわいがっていた後輩に電話し、

「5分くらい遅れちゃいそうだけど、タイムカード、押しておいてほしい」

「今日は客先に顔出ししてから行くから、社長に言っといて」

私は体の不調を理由に、どんどん怠慢になっていった。そういう所は、人はよく見ているので、だんだん後輩たちの態度も変わってきた。

私をあてにしなくなってきたのだ。

今までは指示道理やっていた後輩たち。でも先輩が会社に出てこないので、自分たちで判断し、行動できるようになっていく。

私は、自分で仕事を回している意識が強かったので、人の仕様で動くシステムに批判的になった。

はっきりいって、最悪な先輩だ。

でも、営業の人間には私は重宝された。システムの商談があった時は、私を連れて客先に行けば、ニコニコしているだけで、トントンと話しは進み、契約に繋がる事がほとんどだったからだ。

でも営業と一緒に出掛ける仕事は、私にとってやはりキツかったようだ。

出張でのホテル・外食や宴席での飲み食い・暑い寒いに影響する環境は、私には悪い方向にしか働かなかった。

そしてついに、体はアトピーで火を噴く。

全身真っ赤、痒くて眠れない、集中できなくなり予定を忘れたり、後輩のシステムの検証が出来ておらず、バグでシステムを停止させてしまったり。

これ以上、開発や営業にかかわっても、いい結果など出ない・・・

そう思った私は、会社に長期で休みをもらった。2度目の入院である。といっても、前回入院した県立病院で漢方薬で入院するのはもう嫌だ。

それに正直、漢方治療は私には効かなかった。ここ数年、健康食品を飲んでいなかったが、それを売ってもらっていた藤本さんに連絡をして、四国の足摺岬にあるアトピー治療で有名な病院に、入院出来る事になった。

大阪まで車で移動し、大阪港からフェリーで足摺港まで行った。

アトピー治療で土佐清水病院

私はその病院について、異様な光景を目の当たりにした。

町中からする異様な匂い、病院から出てくる”全身包帯をまいた人々”まるでミイラだ。

最初の診察を終えて、自分が同じ姿にされるとは思ってもみなかった。

その病院とは、アトピーの人なら聞いたことがある人も多いかもしれない。高知県の土佐清水病院。

主治医は丹羽先生だ。笑福亭笑瓶にそっくり。仙人みたいな先生だ。私は一度、この先生には診てもらったことがあった。

1度目の入院先で知り合った看護師の田口さんに、健康食品を教えてもらったが、田口さんは塗り薬も使っていて、その薬は土佐清水の診察を受けないと出してもらえない薬だった。

その為、丹羽先生が全国を巡回し講演会をする時に、少人数だが丹羽先生の診察を受けることが出来て、過去に丹羽先生には会っていたのだ。

丹羽先生に高知の土佐清水病院であった時、

「名古屋で会った人だったね。不摂生したね。しっかり治しなさい。ここは田舎だから、空気も良いし絶対に元気になる」と言われた。

パンツ一丁になって全身診せたあとは、看護師さん3人がかりで、全身に軟膏を塗られた。

そして、軟膏の上から白い、べっとりとした歯磨き粉のようなものを塗られた。歯磨き粉ならまだ、さわやかな匂いがするが、その白い薬は違った。

私がこの町に入った時に嗅いだ匂いと同じだ。「グリテール」という。

めちゃくちゃ臭い。そして、洗っても簡単には落ちない。しかも、この薬が付いた洋服はシミが残るという。

だから皆、全身に包帯をするのだ。診察と処置が終わった私は、廊下に出た。

同じように一人、また一人と、ミイラが量産されてくる。

アトピー入院土佐清水

どんなアトピーがひどい人も、どんなかわいい顔をしている子でも、全員ミイラにされた。

笑うしかない。たぶん、交通事故をしてもここまで全身に包帯を巻くことは無いだろう。私は一生のうち、この時が一番、包帯の量を使った。どうでもいい自慢だ。

(Twitterでこの写真見せた時の反響が多かったので、貼っておきます)

https://twitter.com/raijin0423/status/1331483136950112258

当時の土佐清水病院は、「これ、病院か?」というくらいボロかった。そしてアトピーを治してからじゃないと帰らせないくせに、入院ベッドが無い。

(入院ベッドはあったが、膠原病治療か皮膚がんの患者さんしか受け入れられないくらいのベッド数だったらしい)

だから、私らミイラは、土佐清水の市内にある旅館や民宿から、毎日治療に通う事になった。

土佐清水病院の周りには、そのような宿がかなりあったので、たぶん「土佐清水病院の患者しか止まらない宿」も多かったと思う。

だって、旅行に行って泊まった宿から、包帯グルグル人間がぞろぞろ出てきたら、きっと泊まりたくなくなるだろう?

私は、「コアハウス」という、丹羽先生の健康食品の会社が経営する「宿舎?」的な宿を取る事ができたので、そこに泊まった。

コアハウスニワ

確か一泊4000円、食事代別、お風呂はシャワーもあり共同。食事は食券を買って、一階の食堂で提供してもらえた。

もう、気分は合宿だ。みんなミイラなので、すぐに友達になれた。

アトピーでボロボロなのに、みんな楽しそうだった。

最初はこんな個室を希望したが、仲良くなると、大広間での生活に変えた。

費用も個室よりも安くできる。朝は皆、起きれない。

痒みで眠れない夜もみんな一緒なので、朝起きれない人もいっぱいいた。

大概の人は朝、シャワーを浴びた。朝起きると、粉だらけだった。

体をシャワーで洗い、軟膏を落としてから、病院に向かった。

午前中の処置、それは土佐清水病院名物「遠赤外線のサンドバス(砂風呂)」だ。砂風呂と言っても、粒は3mmほどの赤茶色の玉だ。

この赤い球が遠赤外線を出すようで、温められたこの玉の風呂に体を埋めてもらって体を蒸らすと、アトピー特有のゴツゴツ・ザラザラした肌も、柔らかく弾力のある肌になり、普通のお風呂やサウナよりも新陳代謝が促進されるのだという。

サンドバスでは、看護師さんがスコップでお出迎えしてくれる。大浴場の大きな湯船に入った砂の上に寝転がり、二人の看護師さんが全身に赤茶色の粒の砂をかけていく。

10分だったか15分蒸された私達は、ホースで水道水をぶっかけられる。体の芯が温かくなったが、不思議なことに体が熱くなっても痒みが増えることは無かった。

サウナに入った気だるさのまま、フラフラと宿に帰った。宿に戻ると、自分たちで洗濯をした。屋上にコイン洗濯機があった。

シミでムラムラになったTシャツにズボンやトランクス。そして、どんだけあるの?!というくらい何本もある包帯。

ヒラヒラろなびく様子をみて、私はすっかり仕事を休んで来ている事を忘れてしまっていた。

そして、午後からはまた病院に行き、看護婦さんにまた軟膏とグリテールを体中にでベタベタに塗られ、ミイラにされた。

ミイラを上手につくりため、看護婦さんに包帯をちゃんと自分で綺麗に巻いて持ってくるように言われていた。

私は洗濯しおわった包帯をコロコロと巻いて病院に持っていたので、看護師からは喜ばれた。

同室の北口さんと大烏さんは、外した包帯をそのまま持って行ったので、よく看護師さんに怒られていた。

綺麗に洗ったり巻いたりしておかないと、看護師さんが新しい包帯を使う時がある。もちろん治療費にしっかりプラスされる。これだけ長い包帯を毎回だと、金額もバカにならない。

だからみんな、自分たちで洗った。でも、それが唯一自分で出来る仕事でもあった。

朝起きて、シャワーを浴びて、ご飯を食べ、病院に行ってサンドバスで蒸され、洗濯をして昼ご飯を食べ、午後から薬を塗って包帯でミイラにされて、宿舎に戻って昼寝をして、夕飯を食べて・・・

そんなのんびりした生活をしていたら、ストレスなんて無い。

ストレスがもとでアトピーが悪化する人は、生活に変えるだけで治るだろう。

私は病院に入院している患者の中では、比較的症状が軽かったのと、サンドバス&軟膏治療の効果が早く出たのもあり、見る見る状態は良くなった。

入院期間は一ヶ月も無かった。

ミイラからの脱出は、自分で判断した。こんな生活を続けていていいのか・・・早く会社に戻らなくては・・・

今から思えば、違う道をこの段階で選んでいれば、その後にアトピーに悩まされず、このブログを書く事も無かったかもしれない。

会社に戻った私は、病院からの処方の塗り薬と、病院おススメの健康食品を使って生活していくことになる。

問題は、この塗り薬が保険適用でない事と、健康食品の金額も高いとい事だ。

アトピーの治療方法が、星の数ほどある(かもしれない)

だからこそ、自分に最適な治療方法が見つけるのが大変だ。

自分に効果的な治療法が見つかっても、高額な場合が多く、治療をつづけられないと、悪くなったりもする。

それに、自分の体が年齢とともに変化することで、5年10年経つと以前の治療方法では効果が出にくくなってくることもある。

実際に私がそれにあたります。

私は土佐清水の治療を受け、その後塗り薬と健康食品で体を維持してきましたが、

治療費と効果が見合わなくなってきたので、「続けられる治療・対策方法」に切り替えました。

その話を、このブログの記事としてアップしています。

手頃で、安価で、取り組みやすい。

誰にでもやってみることが出来るから、効果があれば続ければいい。

治療費のかかる方法しか、体に効果が出ない人もいる。

その人には、治療費の稼ぎ方もお伝えしていきたい。私はこのブログでもそうだが、

インターネットを使った広告を書いたりもしています。

広告収入でも個人で生計が経つ時代だからです。

ストレスが原因で痒くなったりする人もいる。

そんな人には、考え方やちょっとしたアドバイスもしていきたい。

私は会社で人のストレスを感じ、アトピーの体をして働く事の辛さも知っています。

今はそれから解放されて、雇われずに生きています。

特別難しい事などしていなくても、家族4人、ちゃんと食べていけています。

もしあなたが、アトピーで悩んで、仕事も、お金も、アトピーにも苦労をしているのなら、

ブログを読んでもらったら、何かお役に立てるかも知れません。

ご意見、ご感想、ご批判、何でも結構です。

必ず読みますので、ご連絡ください。

長い自己紹介になりましたが、読んでもらってありがとうございます。

冬の乾燥のシーズンは2月の後半まで続いた。

3月になってだんだん温かくなると痒さに変化が出てきた。

「新芽の吹く季節」という現象だ。

よく言う「花粉症」のシーズン。普段は何もアレルギーが出ない人でも、このシーズンだけは辛いという時期。

私もその影響は、目や鼻には出なかったが、花粉の混ざった空気は、埃っぽくて体が乾燥とは違った痒みがあった。

4月5月は一年で一番楽だった。天国の季節。自分が4月生まれだったので、この時期は一番うれしくて、活動的だったと思う。

6月は梅雨に入り。ジメジメ。乾燥しない代わりに、蒸し暑かったりして首元にボロボロが出たりした。

7月から9月までは、暑さと汗と紫外線との闘いだった。

汗は傷にしみる。エアコンで冷やされた肌と外の気温の差は、体温調整のできない体にはきつかった。

日焼けした肌は、火傷のようになり体液がにじみ出た。海なんてもってのほかで、また友達の輪から外れた。

10月からはまた辛い時期になる予感を受けた。

人よりも暑さにも寒さにも弱い体は、ほぼ一年中悩まされた。

そしてまた乾燥にシーズンを迎え、去年よりも強い薬を使わなくてはいけないようになっていきました。