大学を3月に卒業して、就職までも間一ヶ月近くあった。就職は決まっていたが、あまり出かけなかった。
卒業を祝うあつまりが沢山あった。だがそこでお酒を飲むと、体はひどくなった。
体が熱くなり、全身が痒くなってくる。掻いてはいけないという自制が効かず、無意識に掻く量も増え、翌朝は血まみれだった。
友達と遊ぶ機会もだんだん減った。
こんな顔や体で会ったら、きっとビックリするだろう。実際、自分的には調子がいい時に会った時でも、
「おい、すごい痒そうだな。顔が真っ赤だぞ。熱もありそうだな」と気を使ってくれたがそんな気を使われるのが、一番辛かった。
飲み会への参加が減り、スポーツなどの誘いにも出れず、ドライブや映画などの比較的体への負担が少ないような誘いですら、ここ最近のバイトの疲れをとるために、寝れるうちに寝たいと思うようになり、だんだん友人とも疎遠になっていった。
4月に技術系の営業職としてOA機器の会社に就職し、法人客のルート営業担当になった。
入社初日の夜、アトピーの症状がつらくて、なかなか寝むれなかった。布団に入り、体が温かくなってくると、ムズムズと痒みが増してきた。そのうちイライラしてきた。
掻くと傷が深くなるので、掻いてはいけないと、つねったり、叩いたり。でも、眠さとの境で無意識に搔いてしまい、血だらけのパジャマとシーツ、掻き壊した皮膚や、めくれ落ちた自分の落屑。
もうろうとする意識は、痒みを忘れさせてくれるようになり、やっとウトウトし始めた時に東の空はうすら明るくなり、やがて朝を迎え、ボロボロの体に軟膏を塗るため、シャワーを浴びてから出社した。
社会人とては1年生だが、専門分野では上司や先輩ですら、私に説明や操作をいきなり任せてもらえたので、とてもやりがいがあった。
でも、アトピーは痒かった。昼間も人目につかないように隠れて体を搔いた。トイレに駆け込んだ時に、痒い所を思い切り掻けた時、ものすごく気持ちよかった。
でも掻いた皮膚からは血がにじみ、爪には削った皮膚が付着した。自分の体の皮膚がボロボロで軟膏を塗った体は、保湿機能と体温調整が出来ないので、建物と外を出入りをするような仕事では、地獄だった。
掻いた体の傷からは体液がにじんで、肌着が体にくっついてしまう時があった。体液は何とも言えない匂いがする。
家に帰ったら最初にお風呂に入った。その時、体液で肌にくっついたシャツやパンツを脱ぐのは、治っていないカサブタを剥がすように痛かったのを覚えている。
お風呂もゆっくり長く浸かっている事なんて出来なかった。
長く浸かっていれば、リラックスはできる。でも、お湯で体をキレイしたいけど、石鹸は体にヒリヒリとしみた。
湯船につかっていると、だんだん自分の皮膚がはがれて、すぐにお湯が汚れた。浮かんでくる皮膚をすくいながら、「こんなお湯じゃ、次の人(家族)は入れないなぁ」と申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
だからシャワーを使って体を洗った。シャワーから出るお湯が体にあたる刺激は、気持ちよかった。でも、シャワーでは体が温まらないので、風呂を出てから寒くて仕方なかった。
風呂から出たら、一刻を争う一番忙しい時間が待っていた。すぐに体に油を塗らないと、体は1秒ごとに乾燥していった。水分を保持できない肌は、あっという間にカサカサになり、ほおっておくと乾燥地帯の土のように剥がれ浮き始めた。
そこが数分後にはまた痒くなり、今日の夜もまた痒くて眠れない時間が続く。
体内ホルモンの分泌や副腎の働く時間の関係もあるのだろう、痒みが増すときもあれば、弱まるときもある。
物事に集中している時間は、少しだけ痒みが薄れた。でも、集中力なんて長くはもたない。また痒さが出てきた。
いや、正確には痒みが出始めると、集中なんかしていられない状況だった。
新入社員の仕事は、そんなに多くなく先輩たちがフォローしてくれた。でも、私の体の辛さはもう限界だった。
ある日の朝、ついに起き上がれなくなった。体が震え、力が入らず、ベッドから起き上がる事もできない。
震える声で母親に行った。
「今日、会社を休みたい」入社して一週間も経ってなかった。
それから私は半年以上の休職に入ることになった。社会から離れ、友人などとも離れた私は一人ぼっちになっていた。
「あそこの医者でアトピーがなおった」と聞けば、遠方でも出かけた。
「ここの水を一ヶ月飲めば、体がきれいになった」と聞けば、ただの水に何万も払って買いに行った。
悪い事なんて何もしてないのに、なんでこんなに辛いのか。。。泣くことが多くなり、怒る事も多くなって、家族に当たり散らした。
それでも、家族は私に文句は一回も言わなかった。お袋が一緒に泣いてくれた。背中に軟膏を塗りながら、「ごめんね、ごめんね」って言われた。
言われるたびに、腹が立った。
塗り薬はどんどん強い薬に変わっていった。塗ってダメなので、注射をしてもらっていた。(ステロイド注射)
そしたら、翌日すごく楽になった。魔法の薬だと思った。
楽になると、気分も晴れて元気な気分になった。いつも見ているテレビや家族との会話も楽しかった。同じものを食べてもおいしく感じた。
でもそれは、3日も持たなかった。だんだんまた痒さが増してきた。一度楽な状況を知ってしまうと、今ある痒さが余計に辛く感じるようになる。
薬の量が増えた。医者に行き注射をしてもらう日が増え、注射する薬もだんだん強いものになっていった。
このままでは、どんどん悪くなる・・・。今の治療方法を変えないと、死んでしまう。
私は脱ステに走り出す。
その後の事は、私は正直あまり覚えていない。あまりに辛い思いだったので、記憶にも残っていないのです。
一つ年上の姉から、私が「物や人に当たり散らし、気が狂っていた」と言われた事があった。きっと迷惑をかけたのだろう。
脱ステを始めた私は、見る見る体調が悪化していった。今まで薬で止めていた痒みが、一気にあふれ体中から汁が出始めた。
「痒みは掻く事で治まるから掻け!」という人もいるが、脱ステ開始時に、掻く事は肉をえぐる行為だ。掻ける状態ではない位に、昼がもろくジュクジュクしている。
案の定、そのジュクジュクは最悪の結果に繋がる。ヘルペスという感染症。そして、それが体中に広がる「帯状疱疹」、しかもこれが顔や目の近くにも広がり始めた。
嫌だったのが、ヘルペスや帯状疱疹が、すごく痛いのだ。帯状疱疹が出ていない部分はアトピーで痒く、疱疹が出ているところは「ピリピリ」とした痛む。激しい頭痛と発熱も始まった。
見るに見かねた両親が、私を市民病院に連れて行った結果、帯状疱疹からの脳炎になりかかっていた事を言われたそうだ。幸い、視力や脳への影響はなかった。帯状疱疹の入院は数日で終わり、自宅へ戻った。
何も出来ない私をみて、父親が知り合いづてに、アトピーを漢方で治療している病院を探してきた。
山奥になる県立病院だった。私の1回目のアトピー入院。そこで私は2か月間、漢方薬治療のために入院することになった。
左側の桜並木の後ろにある城の建物が、(旧)県立下呂温泉病院
画像引用:https://icotto.jp/presses/10349
ここは温泉観光地として全国的に有名ば場所です。中央左側には、河川敷にある無料の温泉がありました。
漢方薬治療のために、わざわざ入院する患者は、その病院には私だけだった。だから入院病棟も専用ではないので、脳神経外科で入院している病棟に私は入れられた。
脳神経外科で入院している人は、重い病気の人だったので、話すことが出来ない人ばかりだった。
何を言っているのかわからないうめき声の人も居た。
夜中に医者や看護婦(看護師)がバタバタと動き回り、翌日までにはその人の姿がベッド事部屋から消えている事もあった。
漢方薬の治療は、朝、昼、夜に漢方薬のせんじ薬を飲む、それだけだ。
東洋医学科の先生が私の主治医で、せんじ薬を飲んだ1時間後に、毎回私の元を訪れた。先生にとって私はいい研究材料だったのだろう。
肌の張り、色、艶、お腹の具合、熱を毎回チェックして、翌日の漢方薬の調合を変えてくれた。
最初は嬉しかった。私をそんなにも診てくれている。治すために一生懸命なのだ、と。でも、先生の目は違った。毎回病室に来て、同じ話を毎回するのだ。
「この薬の調合は・・・」「この薬は肌の張りに・・・」と、私の体を触り、ジロジロみて、ブツブツ言っていた。
あまりにも毎食後だったので、私は部屋から逃げたことがあった。そしたら、先生は病院中を探し回ったそうだ。
病棟の看護師からしても、その光景は異様だったようだ。
「田辺君は、どこいった」
「おかしいなぁ、部屋にいないんだ」
「薬の調子を聞かなきゃいけないのに」
ウロウロする先生を陰から見ていた僕に、一人の研修中の看護師が声をかけてくれた。名前は田口さん。
田口さんもアトピー持ちだった。でも、アトピーの私から見て「ほんとにアトピー?」って思うくらい、透き通った白い肌をしていた。
田口さんは言った。
「本当なら、ここに入院されている人に、それ以外の事を勧めるのはダメだと思おう」
「でも、私が治った方法を教えてあげる。そしたら、ここから抜けれるよ」と。
天使だと思った。私にとってのナイチンゲールだったら。
田口さんからの紹介で、一つの健康食品に出会った。田口さんは、その健康食品のをただで数日分わけてくれた。(この食品を私はあなたに売ってませんので、ご安心ください^^)
2日後、肌がなんだか強い感じになってきたと思った。痒みはある。でも掻いても傷にならない部分が出てきた。
さらに翌日、赤みが引き始めた。東洋医学の先生は、大喜びした。
「僕の作った今回の漢方のせんじ薬の調合が、君に今ピッタリ合ったんだよ」
私は苦笑いしか出来なかった。田口さんに、健康食品の手に入れ方を教えてもらって、さっそくそれを取り寄せた。
その健康食品は今でもたまに使っている。体を酸化させない主旨のものだ。正直、安くはない。
今でもたまに使うのは、それなりに効果があるからだ。このブログで、そのうち紹介するかもしれない。(要するに「活性酸素」を抑制する働きがあるものです)
調子良くなってきた私は、病院中を歩き回った。パジャマを着ているが、手足は動くし何でも出来る。
整形外科で入院している人は、骨折とかで入院してる人の話は出来るので、喫煙所などでタバコを吸いに行った時に知り合いになった。
「え?漢方で入院?アトピー?」
みんなは私を病人扱いしてくれなかった。健康になると、病院というものはつまらない。治療も、せんじ薬を飲むだけ。
もはや、漢方治療か健康食品治療か、よくわからない。入院が3か月ほどになる頃、私は週末だけ自宅に帰る事にした。片道3時間。自分の家に帰れる。久しぶりに友達に会ったりもした。
離れていった友達だったが、中には私からの連絡を待っていてくれたやつもいた。(そいつとは今も繋がっていて、毎年1回、旅行に行って温泉に入って酒を飲んで、パターゴルフをして帰ってくる)
週末だけ帰る入院も2週間した時、両親に退院することを訴えた。
今思えば、きっと安くはなかっただろう入院費を毎月入れてくれていた両親には、今は感謝の気持ちしかないが、その当時の私からしたら「こんな辛い体に産んだ親のせいだから、これくら当たり前だ」と思っていた。
私はまだまだ人間が出来上がっていなかった。バカだったと思う。今、私がその時に自分に会ったら、殴っているだろう。
病院からの退院は、明るい未来しな無かった。田口さんからの健康食品が、俺を変えてくれる!
退院する時に3か月分持たされた、クソ不味いせんじ薬。家で「銅のやかん」で1時間煎じてから、それを冷やして飲んでください。つくり置きせず、一日分ずつ作ってくださいと。。。
この匂いは、家じゅうに染みて、しばらく取れなかった。すぐに飲まなくなる事はわかっていました。
トータルで3か月ちょっと、私の入院生活は終わったのです。
そして、それから一ヶ月の自宅での生活で体を慣らし、仕事へと戻る事になりました。
田口さんから教えてもらった健康食品は、最初は劇的な変化を私に与えてくれました。その健康食品と同時に、塗り薬も教えてもらったのです。
塗り薬は、田口さんのかかっている病院で処方され、健康食品は、病院が提携する会社?から出ているものでした。
それを塗り、食品を飲み、アトピーは前よりも少しずつ良くなっていったのです。
その時は・・・。(第3話で紹介しています)
休職していた会社に戻ると、私は部署を変えられていました。4月に入社した時は、営業一課でバリバリの所でしたら、今度ははっきり言って窓際族の部署でした。
どこ見てるのかわからない課長1名と、私。法人システム課
当時はまだ高価だったデジカメを、ソフトウェアを構築している会社に営業する部署・・・です。
私は高校・大学と情報技術専攻だったので、その部署に充てたれたわけでした。一ヶ月、居たでしょうか。時が止まっていた感じでした。
お陰で体もだんだん良くなり、退社を決意します。
法人の営業の仕事でしたら、はやり営業職だったのでそれなりに体には負担になりました。社外の人間と会う以上、身だしなみにも気を付けなくてはいけないので、調子が悪い時には赤い顔をして客先に行くとこもありました。
ただ、体液がにじみ、トイレに駆け込んで体を掻く事はなかったです。とは言え、出来る事ならオフィスワークで、体に負担のない職場を探していたのです。
そんな時、大学の恩師から連絡があり、プログラマーを1名欲しい会社があるが、内勤だからやらないか?と言われたのです。
すぐに面接し、採用してもらいました。私は、大学卒業後1年にして、2社目で働くことになりました。
一社目の会社では、結局ちゃんと出社したのは1・2か月だったのかなぁ。
プログラマーの仕事は激務だったので、その時に2度目の入院をしました。システム会社に入社して4年経った時、突然アトピーが猛威を振りいました。
田口さんから教えてもらった健康食品だけでは、治まらない体になっていたのです。
あれ?なんで効かないんだ。半べそ状態で田口さんや、健康食品を購入している所の藤本さんに救いを求めます。